お江戸の学校

江戸検1級を取って学んだ「江戸の歩き方」「偉人達の生き様」を紹介します。歴史好きはもちろん、歴史が苦手な人にも楽しくわかりやすくお伝えします。

仇討ちの剣豪

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

武士の美学の一つとして、
『仇討ち』があります。

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その中で『江戸の三大仇討ち』として、
『伊賀越えの仇討ち』、『赤穂事件』、
『護持院ヶ原の仇討ち』が挙げられます。

今回は、その三大仇討ちに関わった
剣の達人をそれぞれ一人づつ紹介します。

まずは伊賀越えの仇討ちで腕を振るった
『荒木又右衛門』です。

伊賀越えの仇討ちは伊賀上野にて、
荒木又右衛門が妻の弟源太夫を殺した
河合又五郎に源太夫の兄であり妻の弟の
渡辺数馬に依頼され仇討ちを遂行した話です。

講談などで有名な伊賀での『三十六人斬り』
がありますが、それは誇張に過ぎず
本当は斬ったのは二人だけだそうです。

しかし、荒木又右衛門の勇敢な闘いぶりは
江戸っ子の心を揺さぶり後世まで
語り継がれました。

次は赤穂事件で活躍した剣豪
『堀江安兵衛』です。

安兵衛は吉良討入りの前から吉良邸の近くで
『長江長左衛門』と名乗り住み、
赤穂側の密会や吉良への情報収集を
行ったことで知られています。

しかし、安兵衛が剣豪と名を轟かずキッカケに
なった事件があります。

それが『高田馬場の決闘』です。

安兵衛が道場で親しくなった菅野六郎左衛門が
村上庄左衛門から果たし状を受けた時に
助太刀として応戦した出来事です。

講談などでは18人の一味を切り捨てたと
伝わっていますが、実際は3人でした。

そして最後は護持院ヶ原の仇討ちの
『井上伝兵衛』です。

しかし伝兵衛は仇討ちをした人ではなく
仇討ちで討たれた本庄茂平次に
殺された人物。

伝兵衛は天保の改革で有名な水野忠邦
片腕として名高い鳥居耀蔵(ようぞう)が
大阪西町奉行矢部定謙(さだのり)を
葬り去ろうとした計画に巻き込まれたのです。

本庄茂平次経由で企ての加担を
依頼されましたが、穏やかで情深い伝兵衛は
これを断ったこと理由に
殺されてしまいました。

そして後に伝兵衛の甥・熊倉伝十郎と
伝兵衛の剣の弟子・小松典膳に
仇討ちを遂行されました。

三件の話を振り返ってみると
講談などで誇張されてしまった話はあれど、
勇敢に信念を貫いた剣豪達は
やっぱりかっこいいです。