お江戸の学校

江戸検1級を取って学んだ「江戸の歩き方」「偉人達の生き様」を紹介します。歴史好きはもちろん、歴史が苦手な人にも楽しくわかりやすくお伝えします。

谷中感応寺はなぜ天王寺に改名したか?

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

今回は谷中にあった『感応寺』が
江戸後期に入って以降、『天王寺』に
改名させられてしまった理由に迫ります。

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すみません。
かなりマニアックですね。

谷中の感応寺は『江戸の三富』の一つで
江戸時代の宝くじである『富くじ』が
とっても栄えた寺です。

しかし、その感応寺が
突然改名を余儀なくされたのです。

その理由は11代将軍家斉の側室である
『お美代の方』のワガママです。

お美代は日蓮宗のお寺の娘で
大奥に出仕していたところ
その美しさを見初められ
家斉に寵愛を受けました。

その次々と3人の娘たちを産み
大奥の中でも絶大な権力を
振るうようになっていったのです。

そのお美代の切なる願いは
雑司ヶ谷村に日蓮宗の『感応寺』という
お寺を建立すること。

お美代は家斉に一心に働きかけて
天保5(1834)年にその願いを叶えました。

大部分が召し上げられ、
谷中の元祖『感応寺』も『天王寺』に
改名を余儀なくされたようです。

大奥の権力者は偉大です。