お江戸の学校

江戸検1級を取って学んだ「江戸の歩き方」「偉人達の生き様」を紹介します。歴史好きはもちろん、歴史が苦手な人にも楽しくわかりやすくお伝えします。

大晦日くらいは許して♡

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

最近お仕事忙しいですか?
本当に目が回るほど忙しい日って
ありますよね。

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江戸時代にも一際忙しく仕事をしていた
職がありました。

それは江戸城内だけでなく
城外までの治安を守る『目付』です。

しかも、10人程の人数で…。

目付の忙しさは有名で
目付部屋では呼べばすぐ坊主が
薄茶を出せる準備をしていたり…。

下部屋に設けられた風呂に
毎朝入ることが許されていたり…。

忙しい目付への優遇が
江戸城内でされるほどです。

しかし、毎年大晦日だけは
ピリピリ忙しい目付達の雰囲気は違いました。

老中や若年寄が仕事を終え玄関から
退出したのを見計らって、
玄関にほど近い『虎之間』に集まります。

そしてそこから『大広間』まで
長い廊下を誰が一番かを競い合って
江戸城内を駆け回って遊んだそうです。

毎年大晦日恒例の江戸城内徒競走です。

天下の江戸城内ですが、
いいんじゃないですかね。
晦日くらいは。
いつも頑張ってますし。

細川宗孝?間違えました…

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

平和な江戸時代において、
巷の事件や名門のお家騒動など
庶民の関心をさらう格好のネタでした。

その中でも世間を騒がせたのが
江戸城内での刃傷事件です。

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刃傷事件を筆頭に、
 稲葉正休や佐野善左衛門など
事件を起こしてきました。

その江戸城刃傷事件の中でも
最も残念な事件が延享4(1747)年に
起こりました。

事件を起こしたのは寄合の
板倉勝該(かつかね)』、
被害者は肥後熊本藩
細川宗孝(むねたか)』です。

宗孝が厠に行ったところ背後から
斬りつけられました。

犯行の理由は
自分を後継に選ぼうとしなかった
本家『板倉勝清(かつきよ)』を
恨んでのこと。

板倉勝清?
細川宗孝ではなくて?

そう。人違いです。

やられた方は
たまったもんじゃありません…。


夢は将軍の奥様!

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

今回はちょっと将軍の奥様である
御台様のお小遣い事情に迫ります。

時代によって多少の変動はありますが、
寛政元(1789)年の御台様の合力金
(お小遣い)はなんと5,000両!

で、さらに1,000両は貸付金にして
利子を上納していたとのこと。

ざっと1両を今の10万円とすると、
その額…約5億円!!

もはや、プロ野球のトッププレーヤーです。

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相当お金持ちでいらっしゃいました。

さらに、
御簾中様(次期将軍の正室)も同額で
御部屋様(将軍の男子を出産した女性)でも
約3,000両(約3億円)でした。

ちなみに、江戸の治安を守る町奉行所の
経費が2,000両(約2億円)です。

そりゃ将軍の妾になりたい女性も
多いわけです。

将軍の暇つぶし♡

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

天下の将軍とは言え、
時にお城暮らしと退屈。

鷹狩りをしたり、
浜御殿で船遊びや釣りを楽しみたくても
一人で出掛けることもできません。

そんな退屈なお城暮らしを
少しでも楽しくしようと
変わった遊びを見つけ出した将軍がいます。

それは12代将軍家慶です。

家慶はます御前に江戸城中奥勤めの
奥医師』を呼び出し、
金屏風で囲んだ場所をつくり
彼らを籤で順番に中に入れさせます。

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中に入る奥医師は少し不安げな様子。

すると外から家慶の
『御用意はよろしいか?』
という声が…。

不安を覚えながらも
『はい』と返事をすると
上から褥などの柔らかい物が
降ってきます。

それをおもむろに頭に被って身構えていると
今度は机やら文庫やら箪笥、硯箱、花瓶、
火鉢などが降ってくるではありませんか!

しばらくすると家慶は
『もうよいか?まだか?』
と声をかける。

『まだまだ』と答えればまだまた続くし
『もう結構です』と答えればそこで終了です。

家慶はそれを終始ご満悦に
ケラケラ笑いながら見ていたそうです。

ちなみに投げ込まれた物は
全て拝領できたようで、
中に入れられた奥医師
嬉しいやら恐ろしいやら…。

そんな遊びを始める家慶も
もしかしてドS?だったのかもしれません。

目安箱の中身を見てはいけません。

こんにちは。

 
お江戸夫の大輔です。
 
『目安箱』という制度は
聞いたことありますか?
 
八代将軍吉宗が庶民からの意見を聞こうと
江戸城辰ノ口評定所前(現東京駅北口付近)
に設置した意見箱のことです。
 

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実際に吉宗は、庶民の意見を参考に
小石川養生所(貧しい病人達の病院)の設立
などを行いました。
 
目安箱の中身は将軍以外
見ることができませんでした。
 
意見書を確認するときは
江戸城中奥のプライベート空間である
『御次之間』にて一人でこっそり読みます。
 
鍵の管理もしっかりしていて
『錦の巾着』に鍵を入れて、
それを自身が肌身離さず持つ御守りの紐に
終始くくりつけていました。
 
ここまでしっかり管理するとは
吉宗が庶民の意見を大切にしていた証ですね。
 
名君と言われる所以が
少しわかった気がします。

江戸最大の画派狩野家

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

江戸の名門かつ最大の画派といえば
狩野派』ですが、一口狩野派と言っても
細かく分かれています。

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大きな違いは、
将軍にお目見えできる『奥絵師』と
お目見えできない『表絵師』です。

表絵師の狩野家の数は
駿河台狩野家、深川水場狩野家を
はじめとする15家です。

これに対して花形奥絵師は
以下の通りです。

『探幽』を始祖とする『鍛冶橋狩野家』
『安信』を始祖とする『中橋狩野家』
『尚信』を始祖とする『木挽町狩野家』
『岑信』を始祖とする『浜町狩野家』です。

これぞ、狩野のネットワークです。

ただこの規模に反発しようと生まれた
流派もあり、清から長崎に伝わった
『南蘋派(なんぴんは)』なんかも
その一つです。

なかなか絵とは無縁な世界の私達には
ややこしいですが、狩野派奥絵師4家は
覚えておくといいと思います。

赤穂四十七士は本当は?

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

赤穂浪士と言えば、
『四十七士』と答えるのが普通でしょう。

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しかし、切腹覚悟の討入りで
志士達の心も動揺し直前で
些細な人数の変動がありました。

実は本当は討入り直前まで
『四十七士』ではなく『四十八士』
だったのです。

あえなく抜けることになったのは
『毛利小平太』です。

小平太は討入りギリギリまで
吉良邸内部の情報を探った人物ですが
最後は兄の反対を受けて逃れることに
決めました。

また実際に討入りに入ったのは
本当は『四十七士』は『四十六士』
だったこともわかっています。

なんと討入り直前で『寺坂吉右衛門
が恐怖のあまり逃げ去りました。

無事吉良の首を挙げることができたものの
毛利小平太や寺坂吉右衛門を統率できなかった
不本意さも赤穂浪士側には残りました。

やはり命懸けの仕業には
命懸けの決意が必要ですね。


赤穂浪士討ち入りの日

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

12月24日はクリスマスイブですが
12月14日は何の日かご存知でしょうか?

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その日は赤穂義士の吉良邸討ち入りの日です。

今でも、その日には浅野家の菩提寺である
泉岳寺の義士祭など、各地で赤穂浪士
まつわる様々なイベントが催されています。

では一体、12月14日を討ち入りの日に
決めたのは何故でしょうか?

その謎を握るのが『大石三平(みつひら)』
です。

三平は直接的に仇討ち活動に
参加はしませんでしたが、
大石内蔵助の一族として、
赤穂浪士達を陰ながら支援した人物です。

三平はまた茶道を志していて、その宗匠
山田宗遍(そうへん)でした。

その宗遍の三平と同じ弟子として
学んでいたのが中島五郎作という
材木問屋で三平とも親しい仲でした。

その五郎作ところには、
江戸で神道や歌道を教える羽倉斎宮(いつき)
が借宅していました。

その羽倉斎宮は吉良邸にも出入りをしていて
この羽倉は12月14日に吉良邸で
茶会があるという情報を入手し、
それが五郎作つてで三平へと伝わったのです。

そして、三平は赤穂浪士
吉良邸の茶会情報伝えることとなったのです。

やはり、情報はあらゆる方向から
人づてによって運ばれてきます。

秘密情報の管理は敵だけじゃなく
味方にも気をつけなければなりません。

ちなみに羽倉斎宮
後に国学の先駆として有名になる
荷田春満(かだのあずままろ)』です。

飢饉の中のヒーロー

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

農作物に頼っていた江戸時代、
気候変動や災害による凶作や飢饉が
何度も起こりました。

特に三大飢饉と言われる
享保天明天保の飢饉では
大勢の餓死者を出しました。

しかし、そんな苦境の中、
利他の精神を貫き
後世に名を残した人物もいました。

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今回はその中から3人を
紹介します。

1人目は伊予郡筒井村(愛媛県松前町)の
農民『作兵衛』です。

米の収穫がない中、農民たちは
貯えていたわずかな雑穀で飢えを
しのいでいましたが、それも尽きて
餓死する人が続出した時期でした。

そんな中、
作兵衛は冬作麦のために
畑を耕しましたが、
遂に打ち臥してしまいます。

作兵衛が臥してしまったある日、
近所の人が枕元に麦俵があることに気付き、
それを食べるように勧めたそうです。

しかし、作兵衛はそれを食べると
来年食べるものがなくなってしまう
と言って最後まで手を付けませんでした。

作兵衛は餓死しますが、
自分の命よりも多くの人を救おうとした
この話は広く伝わり『義農』として
作兵衛の名前は生き続けました。

2人目は、出羽国尾花沢の代官
『大貫次右衛門』です。

次右衛門は天保の飢饉の際、
村を自分の目で見て回り、
年貢の減免を行い、
庄内藩から米を借り窮民に分け与えました。

『佐藤助右衛門』です。

助右衛門も天保の飢饉の際に
活躍した人物です。

松皮餅も大量に作らせて窮民に与えたり、
ポケットマネーで他藩から米を買い入れたり、
救済資金を確保するための組織を結成したり、
しました。

平常時に人に優しくできる人は沢山いますが、
緊急時に自分も苦しい時に人に
優しくできる人って結構少ないと思います。

でもそこが本当の『人間力』だったりします。
もっと自分自身を磨いていかなきゃな
と思う今日この頃です。

武士の美学『殉死』

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

主君に忠誠を誓う武士の美学の一つに
『殉死(じゅんし)』があります。

主君が亡くなった後を追って、
自分も切腹して果てることです。

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有名なものを挙げると…

熊本藩主細川忠利(ただとし)が
亡くなった際に19名が、
佐賀藩鍋島勝茂の時には
26名が殉死しています。

そんなに殉死されたら藩も
たまったものではなかったでしょう…。

幕府でも殉死はありました。

二代将軍秀忠が亡くなった時に、
老中森川重俊(しげとし)が、
三代将軍家光の時には
老中堀田正盛阿部重次が殉死しています。

しかし、4代家綱の時代になると
殉死の弊害の大きさから『殉死禁止令』が
出されて以降は件数はめっきり減りました。

この禁止令が
武断政治から文治政治への転換期に
なったとも言えそうですね。

命は大切にしましょう!

不浄門から生きて出た者

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

大手門、半蔵門、坂下門、桜田門などなど
天下の江戸城には様々な門があります。

その中で通称『不浄門(ふじょうもん)』と
呼ばれ、死者や罪人を城から出す門が
ありました。

その門は『平川門』です。

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将軍様の居場所である江戸城内で
罪を犯すなど不届き千万!

罪人が生きて城に出れる者も少なかったと
言われています。

その中でも、江戸時代に
この平川門から生きて江戸城を出た罪人が
2人います。

1人は正徳4(1714)年に山村座の役者生島新五郎との密通の罪で信濃の高遠に流刑となった
大奥年寄『江島』です。

もう1人は赤穂事件で吉良上野介に斬りかかった
赤穂藩主『浅野内匠頭』です。

どちらも不名誉かもしれませんが、
江戸時代のビッグニュースに
関わった人物です。


幻の作品

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

今回から数回に渡り赤穂事件を
取り上げたいと思います。

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赤穂事件は浅野内匠頭吉良上野介
対する刃傷事件を皮切りに始まった
出来事です。

事件後、浅野は即日切腹だったのに対して、
喧嘩両成敗の時代に吉良は何のお咎め
無かったことを不服として浅野の家臣達
が吉良に仇討ちを遂げるという話です。

この話は、江戸庶民の間で人気を呼び
これを題材にした沢山の作品が
歌舞伎や浄瑠璃の中で生まれました。

その中でも有名なのが
竹本出雲らの脚本の『仮名手本忠臣蔵』です。

歌舞伎でも浄瑠璃でも大ヒットし
繰り返し上演されました。

他にも近松門左衛門作の『碁盤太平記』や
吾妻三八作の『鬼鹿毛無佐志鐙
(おにかげむさしあぶみ)』があります。

そして、幻の作品もありました。

それは
『曙曾我夜討(あけぼのそがようち)』です。

上演されたのは、赤穂四十六士切腹から
わずか12日後!

鎌倉時代曾我兄弟の仇討ちに仮託したもの
でしたが、幕府を刺激することになり
たった3日間で上演中止になりました。

まさに幻の作品です。

タイミングと程度を間違えると
世間から消され幻になってしまうのは
いつの世も同じみたいですね。

坂本龍馬にトドメを刺したのは…

こんにちは。

 
お江戸夫の大輔です。
 
未だ謎多き坂本龍馬暗殺の真犯人。
 

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しかし確定とは言えないが、
それに関わったとして有力な人物がいます。
 
その男の名は『佐々木只三郎』です。
 
会津藩士の只三郎は
会津藩預かりの浪士組(後の新撰組)の
浪士取締並出役として近藤勇らと
行動を共にした人物です。
 
浪士組から寝返りをした清河八郎
暗殺に関わったことでも知られています。
 
只三郎が龍馬暗殺に関わったとされる理由は
二つあります。
 
一つは只三郎の兄手代木勝任の証言で、
龍馬を殺したのは弟の只三郎だと
話していることです。
 
二つ目は近藤勇の愛妾である
深雪大夫の証言にあります。
 
確定とは言えないものの、
只三郎が暗殺部隊を指揮していたことは
間違いないようです。
 
しかし坂本龍馬のカリスマ性は
死に際も死んだ後も消えることは
ありません。

仇討ちの剣豪

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

武士の美学の一つとして、
『仇討ち』があります。

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その中で『江戸の三大仇討ち』として、
『伊賀越えの仇討ち』、『赤穂事件』、
『護持院ヶ原の仇討ち』が挙げられます。

今回は、その三大仇討ちに関わった
剣の達人をそれぞれ一人づつ紹介します。

まずは伊賀越えの仇討ちで腕を振るった
『荒木又右衛門』です。

伊賀越えの仇討ちは伊賀上野にて、
荒木又右衛門が妻の弟源太夫を殺した
河合又五郎に源太夫の兄であり妻の弟の
渡辺数馬に依頼され仇討ちを遂行した話です。

講談などで有名な伊賀での『三十六人斬り』
がありますが、それは誇張に過ぎず
本当は斬ったのは二人だけだそうです。

しかし、荒木又右衛門の勇敢な闘いぶりは
江戸っ子の心を揺さぶり後世まで
語り継がれました。

次は赤穂事件で活躍した剣豪
『堀江安兵衛』です。

安兵衛は吉良討入りの前から吉良邸の近くで
『長江長左衛門』と名乗り住み、
赤穂側の密会や吉良への情報収集を
行ったことで知られています。

しかし、安兵衛が剣豪と名を轟かずキッカケに
なった事件があります。

それが『高田馬場の決闘』です。

安兵衛が道場で親しくなった菅野六郎左衛門が
村上庄左衛門から果たし状を受けた時に
助太刀として応戦した出来事です。

講談などでは18人の一味を切り捨てたと
伝わっていますが、実際は3人でした。

そして最後は護持院ヶ原の仇討ちの
『井上伝兵衛』です。

しかし伝兵衛は仇討ちをした人ではなく
仇討ちで討たれた本庄茂平次に
殺された人物。

伝兵衛は天保の改革で有名な水野忠邦
片腕として名高い鳥居耀蔵(ようぞう)が
大阪西町奉行矢部定謙(さだのり)を
葬り去ろうとした計画に巻き込まれたのです。

本庄茂平次経由で企ての加担を
依頼されましたが、穏やかで情深い伝兵衛は
これを断ったこと理由に
殺されてしまいました。

そして後に伝兵衛の甥・熊倉伝十郎と
伝兵衛の剣の弟子・小松典膳に
仇討ちを遂行されました。

三件の話を振り返ってみると
講談などで誇張されてしまった話はあれど、
勇敢に信念を貫いた剣豪達は
やっぱりかっこいいです。

巌流島の決闘の陰の立役者

こんにちは。

 
お江戸夫の大輔です。
 
『巌流島の決闘』
歴史通のあなたならよくご存知の方でしょう。
 

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宮本武蔵豊前国小倉(現在の福岡県小倉)の
剣の達人佐々木小次郎に決闘を挑んだ話です。
 
内容は武蔵が当日決闘の予定時間より
約2時間も遅れて来たことに小次郎は苛立ち、
心の動揺を誘い武蔵が小次郎を倒しました。
 
講談、浄瑠璃、歌舞伎、時代小説などで
語られる有名な話ですが、
なぜ一介の浪人武蔵が小倉の道場持ちの
小次郎に公に勝負を挑めたのでしょうか?
 
やはり、キーパーソンがいました。
その男の名は『松井興長(おきなが)』です。
 
興長は小倉藩の家老で無二斎(むにさい)
という室町幕府十五代将軍足利義昭から
『日下無双兵法術者』という称号を賜った
兵法の達人の門徒でした。
 
その無二斎がなんと、
武蔵の養父だったのです。
 
尊敬する師匠の息子の願いとあれば、
受け入れてしまうのにも無理はありません。
 
こうして、松井興長の計らいによって
巌流島の決闘が実現したのです。
 
やはり、持つべきものは
人との繋がりですね。
 
人との繋がりなくして
物事は大きく動きません。