お江戸の学校

江戸検1級を取って学んだ「江戸の歩き方」「偉人達の生き様」を紹介します。歴史好きはもちろん、歴史が苦手な人にも楽しくわかりやすくお伝えします。

お江戸の不倫騒動

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

テレビをつけるとワイドショーでは
芸能界の不倫騒動で持ちきり
なんて事よくありますよね。

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江戸時代、不倫は想像以上の大罪でした。
なんていったって町奉行所に突き出されれば
『極刑』つまり死罪が科せられましたから。

しかし、
それでも人間の欲は止まりません。

実際不倫は後を絶たず、
結局当事者間の内済で
事を済ますことがほとんどでした。

内済の際には、『示談金(しだんきん)』
というのが課せられ江戸での相場は7両2分
(60〜120万円くらい)だったそうです。

これで済めばいい話ですが、
これで終わらないのが欲まみれの人間です。

なんと示談金を目当ての
『美人局(つつもたせ)』というものが
横行しました。

手口は夫婦が共謀し男を誘惑して
わざと不倫させ示談金を男からゆすり獲る
とういものです。

どの時代も人間は愚かです。

江戸まで名を轟かせた京美人

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

18世紀中期、江戸の女性の間では
『櫛まき』という髪型が流行っていました。

この髪型は浅草寺境内にあった
髪結の湊屋お六という者が
京都祇園の茶屋女主人『梶(かじ)』の髪型を
参考にしたと言われています。

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梶はその美貌だけではなく、
歌集を出版するほどの和歌好きで
祇園の才女として、その名を関東にまで
轟かすほどの女性でした。

京都の才女として名高い『祇園三女』は
この梶をキッカケに生まれました。

次に話題をさらったのが
梶の養女の『百合(ゆり)』です。

百合も美貌と和歌に秀で、
何よりも『字が綺麗』でした。

そのため百合が書いた短冊は
京土産として珍重されたそうです。

そして百合の娘『町』が生まれます。

町も同じく美人茶屋娘として評判になった後、有名画家『池大雅』の妻になりました。

町は池大雅から画を学び
号を『玉蘭(ぎょくらん)』として、
その才能を開花させていきます。

江戸では『笠森お仙』という町娘が
有名でしたが、京都でいえば
梶・百合・町の三女が有名な町娘でした。

美貌だけじゃなく、
芸の才能もお持ちなんて羨ましいです。

吉原の魅力

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

悪所』と言われた吉原が
江戸時代から現在に至るまで
男女問わず魅了し続けた理由は
『浮世離れ』にあると思います。

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江戸市内では当たり前のことが
吉原遊廓内では通用しません。

その一つが『贅沢』です。
江戸市内は贅沢が禁止され着物の柄まで
制限される中、吉原では派手な着物を始め
斬新な髪型など多くの文化が生まれました。

制限された社会の中で生きる江戸の女性達に
とって、浮世絵などで見る斬新な遊女の姿は
ものすごく魅力的に映ったことでしょう。

そしてもう一つが『時間』です。
吉原の夜は暮れるのが世間よりも
2時間遅かったと言われます。

通常江戸市内では夜四つ(午後10時)になると
店じまいをしなくてはなりませんでしたが、
吉原では『引け四つ』という午前0時に
鳴る拍子木がありました。

流石にこの時間になると
吉原でも店を閉めますが、
酒宴はまだまだ続いたそうです。

そして『大引け八つ(午前2時)』
になると酒宴も終わり就寝時間になりました。

でもここからが遊女の本当の仕事の
始まりというわけです。

完全に吉原は治外法権です。
これこそ吉原の魅力の理由でしょう。

恋人募集中!!?

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

素敵な異性との出会いが欲しい!!
そんな方々も多いのではないでしょうか?

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吉原の多くの遊女達も同じく願いは
『素敵な男性に身請けされる事』でした。

しかし、その想いとは裏腹に
遊女の身請け金はとっても高額です。

人それぞれですが、
350両だとか1000両を越えたりだとか、
庶民にはなかなか手の出せる金額では
ありませんでした。

しかも、その金を出せる男は
『十八大通』と呼ばれる成金だったり、
庶民の税金を無駄にする大名だったり、
なかなかイケてる人がいません…。

そんな中、安永4(1775)年に江戸中の話題を
さらった身請けがありました。

それは高利貸しの『烏山検校(からすやま
けんぎょう)』という男が
三浦屋の『瀬川』を1400両で
落籍した出来事です。

この烏山検校という男、実は盲目。
目の見えない男が美しさを売りにする遊女を
身請けしたのです。

外見の美しさ以上に内面の美しさを
見出していたのかも、なんて想像すると
ロマンチックですよね。

ちなみに烏山検校は
目が見えない代わりに記憶力が抜群で
幕府から特別に金貸し業を
許可されていたそうです。

さぞかし金持ちだったのでしょう。

やっぱり金が全てではないけど、
金は必要だという事ですね。

花魁に学ぶ営業術

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

美容室や飲食店などのサービス業における
悩み・関心事の一つに『リピーター戦略』が
あげられると思います。

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新規でお客様に来ていただくのは
とーっても大変な事です。

ですので多くのサービス業にとって
一度来ていただいたお客様に
リピーターになっていただけるかが
重要なテーマになってきます。

今回は魅惑の街『吉原』の遊女に学ぶ
リピーター戦略を書きます。

『吉原三千娼妓』と言われたその時代に
ウカウカと鼻の下を伸ばす男達とは裏腹に
遊女達は数いる遊女の中で目立ち、
いかに売れるかが最大の関心事でした。

その遊女達が使った重要な営業ツールが
『お手紙』でした。

客も遊女からの直筆の心のこもった手紙を
もらう事はやっぱり嬉しいものです。

遊女によっては寝る間も惜しんで
手紙を書き続ける者も
少なくなかったそうです。

そして、自宅に手紙が届いては
不都合な客もいたため
その客が使う船宿や髪結に預けるなどの
気配りも欠かしませんでした。

極め付けは封筒の封じめに
『通ふ神』と書き、
客の手元に必ず届くようにとの
おまじないもしました。

遊女の本気度が伝わります。

こうした『マメさ』と『気配り』が
遊女の成績に反映していったのでしょう。

勉強になります。


咳を治すには◯◯

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

やっぱりJAPANと言えば『Mt.Fuji』ですよね。

日本のシンボルとも言える富士山は
いつも堂々と穏やかに日本中を見守るように
聳えています。

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しかし、そんな富士山も
元々は活火山です。

時々ある噴火は日本中が大騒ぎでした。
宝永4(1707)年の富士山噴火が有名です。
これは富士山最後の噴火です。

周辺にあった須走村では
降ってきた石や砂の重みで家屋は潰れ
小田原でも農作物に被害を受け
多くの人々が飢えました。

この時降った火山灰は江戸にまで届くほどで
火山灰を吸い込んだことによる咳が
江戸では流行りました。

江戸の人々は咳で苦しむ中
どこからともなくある俗説が
江戸中に広がりました。

それは『腹に溜まった砂を出すには
『コンニャク』がいい』というものでした。

本当に効果があったのかはわかりませんが、
これによって江戸にはコンニャクブームが
起こり、値段も暴騰したそうです。

もしこの俗説をコンニャクの生産に
関わる人が流していたとしたら
スゴ腕経営者ですね。

世間が動揺する時は
必ずそれを利用して
儲かる人がいるものです。


将軍の避難場所

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

江戸城本丸内には表・中奥・大奥を含め
多種多様な目的の部屋があります。

その中でも中奥の御休息之間前の
中庭中央部に『地震之間』
という空間があります。

そこは将軍の避難場所
と言われています。

江戸時代から地震対策がされていたなんて
流石地震大国日本!と、褒めたくなるほど
ですが地震之間を設置するキッカケが
ちゃんとありました。

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そのキッカケは
元禄16(1703)年12月23日午前2時頃、
相模トラフを震源南関東一円を襲った
マグニチュード8クラスの『元禄地震』です。

この地震で川崎・神奈川・藤沢・平塚などの
宿場は壊滅状態になり、
小田原も地震後の火事で町の大半が
消失しました。

江戸でも本所・神田・小石川辺りの
家屋が倒壊しました。

これを教訓に翌年正月には
登城した大名や家臣の避難場所を示した
地震の触書を初めて出しました。

地震之間』を設置したのも
この教訓にあります。

こうやって、日本人は少しずつ
地震対策を学んでいったのですね。

きっとこれからも
発展していくのでしょうね。


江戸の永久欠番

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

『喧嘩と火事は江戸の華』

そんな江戸の人々を火事から救ったのが
あの時代劇ドラマで有名な『大岡越前』こと
大岡忠相(ただすけ)によって組織された
町火消』でした。

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町火消隅田川より西を『いろは四十七組』が
東を『本所・深川十六組』が担当しました。

いろは四十七組は『い組』『ろ組』『は組』…
本所・深川十六組は『一番組』『二番組』…
と組織されました。

しかし、不吉な意味を持つため
実は名前を変更されたり、
欠番になった組がありました。

いろは四十七組の中では、
オナラを連想する『へ組』が百組に
摩羅(男性器)を連想する『ら組』が千組に
火を連想する『ひ組』が万組に変更されました。

本所・深川十六組の中では、
死を連想する『四番組』が五番組に
質屋を連想する『七番組』が六番組に
合併されました。

言葉の音や意味まで細かいところまで
考慮するなんて、とっても日本人らしくて
僕は好きです。

箸で家を建て糞で壁を塗る!??

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

江戸っ子の気質と言えば、
『細かいことはきにしない』。

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では、なぜこのような気質が
江戸で育ったのでしょうか?

それは『火事』にあると
言われています。

『喧嘩と火事は江戸の華』
と言われるほど江戸は火事の多い街で
江戸時代には数え切れないほどの
火事が起こりました。

江戸の三大大火と言われる
明暦の大火では10万人もの死者が出ていて
目黒行人坂の大火では1万4700人、
丙寅の大火では1200人ほどだそうです。

そして当時の消火方法は
『破壊消防』で周辺の家を壊して
火が広がるのを防ぎました。

そのため、江戸市内の家はとっても粗末で
『箸で家を建て糞で壁を塗るとは、
江戸小屋のこと』
と揶揄されるほどでした。

みんな家が火事で壊されてもいいと
思っていたわけです。

それ故に今みたいに
家具をどうするか?
部屋のレイアウトがどうだ?
なんて細かいこだわりはなかったのです。

この火事に対する考えが
江戸っ子気質の一つである
『細かいことは気にしない』
を生んだと言われています。

少々荒っぽいですが、
僕はそんな江戸っ子気質が潔くて好きです。


一生に一度は行ってみたい

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

一生に一度は行ってみたい場所はありますか?

サクラダファミリア、モルディブ、ウユニ塩湖
などなど、色んな憧れがあると思います。

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江戸時代、誰もが一度は行ってみたい場所は
伊勢神宮』でした。

老若男女貧富問わず様々な人が訪れ
享保3(1718)年の記録によると
1月から4月中旬までで、
42万7500人もの参拝者が訪れたそうです。

そんな中、ちょっぴり変わった参拝者も
訪れた記録があります。

それは『白い犬』です。
犬!!です!!

この犬は伊勢には行けない人のための
会津からの代理参拝者でした。

犬の首にはちゃんと伊勢参りの旨を書いた
木札と旅のお金として路銀をかけられて
会津から出発をしました。

そしたら約一年後に、
伊勢神宮のお札をちゃーんと首から下げて
会津に帰還したそうです。

これにはもちろん伊勢神宮御師
(参拝客の宿泊の世話をする人)の
努力もあってのことですが、
『微笑ましい話』として広く伝わりました。

それにしても
白い犬はGood jobです!

谷中感応寺はなぜ天王寺に改名したか?

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

今回は谷中にあった『感応寺』が
江戸後期に入って以降、『天王寺』に
改名させられてしまった理由に迫ります。

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すみません。
かなりマニアックですね。

谷中の感応寺は『江戸の三富』の一つで
江戸時代の宝くじである『富くじ』が
とっても栄えた寺です。

しかし、その感応寺が
突然改名を余儀なくされたのです。

その理由は11代将軍家斉の側室である
『お美代の方』のワガママです。

お美代は日蓮宗のお寺の娘で
大奥に出仕していたところ
その美しさを見初められ
家斉に寵愛を受けました。

その次々と3人の娘たちを産み
大奥の中でも絶大な権力を
振るうようになっていったのです。

そのお美代の切なる願いは
雑司ヶ谷村に日蓮宗の『感応寺』という
お寺を建立すること。

お美代は家斉に一心に働きかけて
天保5(1834)年にその願いを叶えました。

大部分が召し上げられ、
谷中の元祖『感応寺』も『天王寺』に
改名を余儀なくされたようです。

大奥の権力者は偉大です。

『白牛』に跨る反吉宗の男

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

名古屋に破天荒な男がいました。

その男はいつも白い牛にまたがり、
真っ赤な装束を着て、
2間(約360cm)の長いキセルの先端を
茶坊主に持たせて町中を行きました。

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その男は尾張藩7代藩主
徳川宗春』です。

破天荒なのは
見た目だけではありません。

世間が『節約志向』に傾いていたこの時代、
真っ向からそれに反対するような政策を
掲げました。

例えば、『風俗開放政策』。

これによって名古屋は
役者、芸人、芸者、遊女達が集まり
芝居興行や遊郭が増え
町は一気に華やかになりました。

参勤交代のお国入りの際も
駕籠に乗らず馬に跨り
虎の羽織を着ていました。

さらに、家臣たちも
想い想いの派手な装束をまとい、
みんな花笠を被っていたそうです。

これには流石に将軍吉宗の目にも止まり
自粛を求められるも反抗し
蟄居謹慎処分を受けてしまいました。

実は幕府によって処分されたのは
御三家当主はこの宗春と
幕末の水戸藩主『徳川斉昭』だけだそうです。

しかも、宗春は死んでからも
その罪は許されず没後75年もの間
墓石には金網がかけたままという扱い…。

ある意味で名を残すレジェンドです。

Welcome to 江戸城!

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

江戸城武家のもので
一般の町人が入れる場所では
ありませんでした。

しかし年に一度だけ江戸城内に
入れる日がありました。

それが『町入御能』の日です。

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これは江戸中の家主を江戸城の大広間に
呼んで能を見物させるイベントです。

この時は弁当や酒も出ました。

極め付けは『野次OK』です。笑

日頃の政治に鬱憤が溜まっているものは
率先して、町入御能に出向きました。

そして老中が出てくると
『しっかり頼むぞー!』
と声を掛けたり、

若年寄が出てくると
『若いの!』だとか『じいさん!』とか
言って声を掛けたそうです。

しかし、町奉行が出てきて
『しぃ!』と制するとたちまち
静かになったそうです。

この日ばかりは野次OKにする幕府も粋ですが、
町奉行には従う分別を持って
野次する家主達もなんだか粋ですね。

江戸時代って素敵です。


下級武士の生き様

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

東京は京都と違って
空襲や地震などの影響により
あまり昔の建造物が残っていません。

しかし、実は地名を見ることで
当時そこがどんな場所だったかがわかります。

例えば、『お台場』
幕末に異国を追い払うために
幕府が造った『砲台』があった場所です。

『蔵前』は
幕府の『米蔵』があった場所です。

そして『御徒町
下級武士の『御徒』達が共同生活を
していた場所です。

前置きが少し長くなりましたが
今回は『御徒』について書きます。

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御徒とは、歩兵の様なもので
戦へ行く時や将軍が遠出をする時などに
護衛のため付き添う人達です。

情勢が不安定だった江戸時代初期は
それなりに仕事はあったでしょうが
それ以降はなかなか仕事がありません。

副業として『花の栽培と品種改良』を
やってしまうほど、武士としては
生きていくのが難しかったようです。

しかし、そんな御徒でも
大出世をした希望の星が2人いました。

1人目が『川路聖謨としあきら)』です。
御徒から勘定奉行という高官に出世しました。

2人目が『榎本武揚(たけあき)』です。
明治維新の際、旧幕府軍を指揮し
函館五稜郭に立て篭もり
最後まで新政府軍に対抗し続けた人物です。

どんなに今が苦しくたって
希望を持って努力をし続けたいですね。

ニセモノですが何か?

こんにちは。


お江戸夫の大輔です。

今でこそ『著作権』があるため
デザインや音楽を模倣すると
すぐに訴えられてしまいます。

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しかし、江戸時代はそんなものは存在せず
比較的自由に作品の模倣が行われていました。

というわけで今回は江戸の贋作絵師達を
ご紹介します。

まずは『市川君圭(くんけい)』。
近江出身京都在住の絵師で
贋作を描きました。

続いては『東渓(とうけい)』。
狩野探幽・尚信、久隅守景、円山応挙、呉春
の絵を描き、当時の画工鑑定に出すと『正筆』とされることが度々あったそうです。

中でも人気があったのが尾形光琳の贋作。
『松田ユウアン』、『依田如水』、
『下河辺玉水』、『大倉是水』といった
人物が知られています。

また狩野探信守道の門人『吉田百太郎守親』は
探幽、尚信、守景の偽物を作りました。
特に百太郎が描く探幽の作品は、木挽町狩野家
で『真筆』と極められていたようです。

贅沢や政治批判に関しては、
厳しい規制があった江戸時代ですが
贋作に関しては現代より江戸時代の方が
自由だったんですね。

そんな時代もアリかもしれません。